道化師の蝶 感想など
円城塔氏の「道化師の蝶」を読んだので感想など。
本作は着想と言語の関係をテーマにかかれた小説です。それぞれを蝶、友幸友幸(主人公らしい)として話しが進んでいきます。
【友幸友幸の獲得したもの】
友幸友幸は世界中を旅しており現地の人の言葉をマネすることで言葉を獲得していきます。
ただ5では(1~5章で構成される)はじめて他人の書いた文章を読むことになります。ここから内的世界らしいものに移行しナバコフとの会話のシーンとなっていきます。
言語が他者とのコミュニケーションによって存在していたものから発展し、出会ったこともない他者から文字として情報提供を受け新たなステージへ昇華します。
これは人類が言語から発展した文字を通し獲得した知識の歴史と同様のものではないでしょうか。いわゆるミームというものです。
その結果「猫の下で読むに限る」が無活用ラテン語という人工言語でかかれたというのは面白いですね。
人工的に生成された言語がどういった意味合いをもつのか私にはまだわかりません。円城さんの他作品を読み進めれば理解が深まると思います。
【印象に残ったシーン】
4の終わりで「わたし」が蝶を捕まえるための網を気まぐれにおばさんに被せるとそのおばさんが友幸友幸になります。本作で一番意外性のあるシーンです。
さらに5では友幸友幸が蝶に姿を変える描写があります。(ここは意見が分かれると思いますが友幸友幸が蝶に変化したという見方と、「わたし」(語り手)が友幸友幸→蝶に移行したという2種類の見方ができます。ここでは前者をとっています)
それまではっきりと分かれていた着想と言語が同じものであるように書かれています。
ここでどことなく言語論的転回(注1)を思い出します。
物が存在する→リンゴという名前がついている から
リンゴと名付けられている→リンゴとして認識する
というアレです。
着想と言語は不可分でお互いに補完しあうものである、という作者なりの答えが示されているように私には感じました。
事前に円城塔さんのインタビューや栗原裕一郎さんの解説(注2)を見ていたので、難解表現に囚われることはありませんでした。
小説的表現と言語に関する考察がはっきり分かれていないのが分かりにくいと感じるの要因かなと思いました。
ただそれがこの作品のよさでもあるのかもしれませんね。
(注2)第146回 芥川賞・直木賞 受賞者記者会見を生放送! - 2012/01/17 18:00開始 - ニコニコ生放送